失敗は 水に流すか リサイクル   

2009年 04月 08日

エコロジーをロジカルに述べてみよう。

使ったものは、もとの場所。

もったいないから、最後まで。

最後といわず、世渡りするか如く求む人々の手へ 受け渡す。


エコロジ学校1年生の私は、生態学がなんぞやとよくわからないけれど、
教室に貼ってあった黒板の横に、サイドメニューのくせしてあたかも名物料理の顔をしてつらづらと書かれた文字こそ、そこから実は論理的にエコを子供たちは学んでいたのかも、と、いう気がしないでもない。

使ったものはもとの場所に戻す、バカにしているのか?と思うくらい簡単な命令。
もったいないから、最後まで。果たして誰に申し訳がつかないのか?叔父叔母に幾度となく注意されて、どうしてだろうと不思議に思うが、遠く見知らぬ国の、私たちがもらうお小遣いで1年をやっと暮らせるそんな人たちが、泣いてほしがるだろうこの「残り」はきっと自分のために神様が用意したのだ、と信じて「最後まで」を遂行する。

最後といわず、くずかごに入れる前に、まだ形のあるそれはなくなってしまってよいものか?
小学5年生の頃に阪神大震災が起き、隣県の学校に通っていた私は言うまでもなく、使いっぱなしのえんぴつやノートを「支援」した。まだこれは使えるものなのだ、欲しがっている人が喜んでくれればなおさら、良いことをしたと小学5年生のわたしは思った。


「良いこと」はいつまで続くかわからない。

澄み切った学を得て、高校へ進学し、20を過ぎて社会人ともなれば、1冊本を読んだかのように1週間のあいだにめまぐるしく人に会って、たわいもない話をして笑ってみたり考えを巡らせてみたり、そうこうして何年も経つと、かつて学んだキレイなお勉強も、どこかキレイ言のようにも思えてくるのもあながち嘘ではない。


興味深い話があるのだが、アフリカで生まれ育った人とごはんを食べに行ったとき、パスタを半分近く残していたのをみたときは目をまるくした。
アフリカの人(子供たち)はマンホールの中で、しくしくと稼いだ生活費をやりくりして生きながらえているというイメージが脳裏にうっすらとあったものだからつい「なんだ、残すのか。」と思った。
二十うん年生きてきての私の先入観だった。


「ニホンハ、シマグニダカラ ト ニホンジンハヨクイウネ」

その人は、日本人に否定をされたことがあるといって、その言葉を皮肉に操って言った。
知らない国に来て生活をしてやっと知ったその国の良さや悪さこそ、彼の人生の財産だと思う。


いろいろと、黒板の前で「それは、なにだからダメ」「これは、こうだから良い」
そう言われ続けてきても、実際に打って響かなければ、言われたことも死ぬまで覚えていることはできないし、どこかしらで忘れるのが人間の常。


エコをしよーせまいが勝手だが、ひとつでも打たれてしまったと気がついたなら最後までやり通す他無い、と言い聞かせる。余計なお世話かもしれないけれど、「困ってるんでしょう?」と言わずに思わずにやれば誰の迷惑にもならないし、ただ地球が長生きするだけ。


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by ceds | 2009-04-08 00:59 | 今日の小言